「Rs' Ink.」をはじめた人ことねぎぽんが自分の経歴や考え方を語ります。「Rs' Ink.」のワークショップはこんな人がつくっています。
まったく縁もゆかりもなければ、「病気」というテーマをまず選ぶこともないでしょう。やっぱりわたし自身が病気の当事者でした。
検査数値ではっきりわかるような病気ではなく、すこし特殊な「病気」ではありましたけれど。
10代後半から20代前半はしんどい時期でしたね。病気を克服したいと試行錯誤を続けて、どうにか就職できたのが、29歳。やっと「社会人」になれて、社会復帰を遂げたわけですが、なんとも遅いスタートでした。
就職するために「就活」はしました。採用面接を受ければ学校を卒業してからこれまでの「空白期間」について当たり前のように質問が及びます。そのときわたしは「闘病」の事実について伏せて隠し通しました。
「正直に言ってしまえば採用されるものも採用されない」と思っていたので。
その判断は間違ってなかったと思います。でも、おかしな話だとも思います。
怠けていたわけでも、遊んでいたわけでもありません。苦しい思いをして、努力をしてこなければ、這いあがってくることはできなかったのに。なのに隠していなければならない。
隠すって、悪いことをしてきたみたいだと思ったものでした。
その後、数多くのがんのサバイバーの方と出会うようになりました。わたしと年の近い世代、20代や30代のサバイバーの友人に多く恵まれました。そこで彼ら彼女らの就労の話を聞かせていただくことも増え、同じことが繰り返されていることを知りました。
「病気をカミングアウトするか否か。それが問題だ」
それって、とても残念なことだと。
病という努力の経験を正当に評価できる社会があったらいい。
いま履歴書には「学歴」と「職歴」しか書く欄がありません。この欄に書くことのできないキャリアは空白=無です。だから、履歴書に書くことのできない「闘病」は無にしかなりません。
でも、履歴書に「病歴」を書くことのできる欄があって、それは履歴書の「空白」ではないのだと、努力をしてきた期間なのだと評価できる社会だとしたら、それはとてもステキな社会ではないでしょうか。
履歴書に学歴と職歴と病歴まで書ける社会になったらいいと思っています。
「学び」をテーマにした活動を始めようというのですから、わたし自身学ぶことに強い興味関心があります。
病と闘うことは苦しいものですし、孤独な営みです。ぼくの場合は目に見えるものも何もない病気だったので、誰にも理解されることもなく、本当に苦しく寂しいものでした。
あまりに苦しいものだから、乗り越えるためにたくさん学びました。それが「学び」の原点です。多種多様なジャンルを学びましたが、なかでもいちばんの支えになってくれたのが、哲学でした。
哲学のルーツは「善く生きる」ことへの問いかけです。ただそれを問うためだけに二千年以上の時間をかけて先人たちが重ねてきた叡知の結晶が哲学です。だから、苦しい状況を抜け出して、善い人生を生きるために、哲学は大きなヒントになりました。
というわけで、わたしにとって哲学は、ただ本を読んで納得したというだけでなく、どうやったらその知恵を実人生で実践できるかに重きがあります。昔も今もずっとそこにこだわりがあります。
ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、レヴィナス、バタイユ、ベンヤミン、ドゥルーズ、デリダ、彼らはみな好きな思想家で、その著作はよく読みましたし、その思想を実践することで、自分の人生を善くすることができたと思っています。
哲学は本質的に「学び」についての知恵なのですよね。
理論は実践してこそ価値のあるもの。頭で理論を考えているだけでは善くなることはありえない。これは譲ることのないわたしの鉄則です。
実践とは、つまるところ身体を動かすことです。そして、周囲の物や人と関わることです。身体を動かして、何かや誰かに関われば、そこに必ず反応が返ってきます。その反応からさらに学ぶことができます。それが実践のエッセンスです。新たに一つ学ぶことで、自分の人生をより成長させ、より善いものへとできるのです。
身体を使った愚直な試行錯誤の繰り返しでしか人は自分の人生を善くすることはできないとわたしは信じています。
というわけで、哲学を読んでも「身体論」という身体を扱うジャンルの著作をよく読んできました。とはいっても、哲学はやはり理論的で概念的な知恵です。そのままでは実践には落としこめません。
そこで、体を動かすことを目的に身体で表現することにも、いろいろ取り組んできました。クラシックバレエ、モダンダンス、座禅。それから茶道。様々なワークショップに参加してきました。ワークショップとわたしの出会いは身体表現の学びの場でした。
数多くの身体表現を試してきましたが、最大の出会いが「インプロ」という即興でするお芝居でした。それまで理論として学んできた哲学の教えがここにすべて凝縮されていると直感しました。わたしにとってインプロは最高の実践スキルとなったのです。
わたしの人生はインプロに救われました。あの苦しかった時期を乗り越えて、いまここまで来られたのは、インプロに出会えたからだと心の底から思います。だから、インプロの力をもっと多くの人に伝えたいと思いましたし、そういう教育のできる仕事をしたいとも思いました。
わたしの学びのデザイナーとしての原点はインプロのワークショップです。
教育や人材育成に関わる資格として社会保険労務士という資格は意識していました。就職した後、働きながら試験勉強をして無事に合格することができました。最初のハードルを越えることができました。
社労士試験にパスしたことで、そこからは、直感と好奇心に忠実にSNSで目についたセミナーや交流会にとにかくすべて参加するようにしました。医療従事者や患者の集まる医療・福祉の領域、教職員や人事担当者といった方々のいる教育や学習の領域、あるいは、イノベーションや社会的起業に携わる経営やビジネスの領域、多方面の人たちと出会い、学んできました。
ここでも数多くのワークショップに参加しました。わたしがインプロに深く関わっていた2000年代半ばは、ワークショップといえばまだ芸術や表現活動のレッスンとして使われるものという認識が一般的でしたが、2010年代には多種多様な場でワークショップが開催されるようになっていました。
「経験の再編集すること」「多様な経験と対話すること」「意味を生成させること」「不確定な未来を受け容れること」「身体を使って学ぶこと」など、挙げればきりがありませんが、ワークショップの場で使われる言葉の数多くが、かつてベンヤミンやデリダ、ドゥルーズ、レヴィナス、バタイユにメルロ=ポンティを通じて学んでいた哲学の知恵につながるものでした。あの当時は「難解なだけの現代思想」とさえ揶揄されてきた知恵が、ワークショップの場ではごく当たり前に使われるようになっていました。
ワークショップのデザインやファシリテーションは、かつて学んできた哲学の知恵を人の学びにリンクさせるためにきわめて有力なメソッドでした。
次第に自分でもワークショップを企画実施するようになりました。はじめは2011年に開催した読書会「谷中書生カフェ」でした。それからインプロのワークショップ。徐々にデザインする場づくりの幅や種類を広げていきました。
2016年にワークショップデザイナーの登竜門である青山学院大学ワークショップデザイナー養成講座を終了して、「Rs'Ink.」の活動としてスタートをさせました。