「R-TALK Interview」の「file:001」は、20代を病気と共に生き、29歳のときに社会人になって、その経験から、病気の経験もキャリアとして考えていきたいと、《健康と病気の「間」で「学ぶ」をデザインする》をテーマに「Rs' Ink.」という活動をしている私、ねぎぽんです。
このインタビューは前後編の構成です。こちらは後編です。
6 病気という初めての経験に適応するためにした工夫や努力はありますか
感情の病は寝ていても直りませんから、とにかく自分から動いて動いて変化を作っていかないといけません。だから、「善くなる」ためにやりたいと感じたことは手あたり次第やろうと決めました。
上手くできることもあれば、失敗することもあります。でも、手ごたえあったことだけに意識を集中することを心がけました。どんなに小さな手ごたえでも、積み重ねれば自信になって、次のチャレンジへと踏み出す足場にできます。
インプロでコミュニケーションに自信がついたら、接客のアルバイトを雑貨店で始めてみる。接客の仕事に自信が持てたら、正社員になるべく就職活動をしてみる。一段ずつのステップアップで、ついにいまの職場に就職しました。
社会人になってからは、まずは資格を取ろうと思いました。ペーパーテストは普通の人より手ごたえを出せるジャンルだったからです。勤めながら資格試験の勉強をして社会人2年目に社会保険労務士と行政書士の試験に合格しました。次はその資格を梃子に士業や起業家の交流会に顔を出すようにしました。
いろんな人に出会いました。多くは現場の第一線でバリバリ働いている医師や弁護士たちプロフェッショナルです。そういうプロたちを前にすれば、29歳でやっと社会人になった身では、売りにできる実績もなく、手も足も出ず、歯もたたずに、スゴスゴと帰ってくる経験を何度もすることになりました。
悔しい思いはいくらでもしていますが、いつも思うことは「自分のもっているもので彼らに価値を提供できるものは何だろう」ということでした。振り向いてもらえるものだったら、哲学の知識でも、病院現場の経験でも、なんでもよかった。見向きもされないこともあるけれど、興味をもってもらえることも、ときにはあります。
私のしてきたことは、ずっと同じことだったのです。「善くなろう」と足掻いていた時期、就職してからリハビリしていた時期、いずれにしても、転んでも、傷ついても、恥かいても、とにかくチャレンジする。前に出る。一歩を踏みこむ。ただそれだけでした。
いままでを変えるには、いままでと違うことをするしかありません。違うことをすれば、上手くいかなくても当たり前ですから、痛い目や恥ずかしい目をみるのは仕方ない。
とにかく、チャレンジは質より量だと思っています。打率4割でも10回中6回は凡打なわけで、ヒットの数を増やすには打席に立つ回数を増やすしかないわけです。で、最初は打率2割でも、打てなかった8回よりも、打った2本のヒットを大切にしていれば、徐々に打率は上がってくるし、確実に打ち返せるボールもわかってきます。
それに、転んだり、失敗したりすることにも次第に慣れてきます。要は「受け身」の取り方を覚えるんです。でも、それも失敗しないと覚えられないものです。もし、痛くて恥ずかしくて、すこし堪えたときは、やらかしてしまったことよりも、やろうとしたことを評価して、自分を労うようにしていました。
やらない後悔よりは、やって後悔した方がずっとマシだと思ってきました。結局、本当に怖いのは機会を失うことなんですよね。試す機会を。
「これが善い」と信じたことでも、実際にやってみれば「見込み違いだった」なんてことはよくある話です。そういう「見込み違い」を後生大事に抱えこんで停滞していれば、なにより貴重な時間を失ってしまいます。ダメなものはとっとと手放すことが大事です。手放すべき時期に手放すべきものをちゃんと手放すことができるかどうかが人生を分けると思うのです。
とにかく自分のできることに焦点を当てることだと思います。できないことや足りないことを数えていたらキリがないので。できる全部をやれたら、すこしずつ、痛みは引いていくことを覚えました。そして、私はすこしずつ、確実に「善く」なっていきました。
7 病気の心身とどのようなつきあい方をしていますか
感情にずっと爆弾を抱えていましたからね。心身のバランスは常に意識しています。感情のモニタリング、感情のマネジメントにはすごく気を遣っています。
できるかぎり、いま生まれている感情を否定しないようにしています。抑えると内にこもって毒になるので。抑えこまないで解放させてあげたい。でも、人間社会で生きていては、感情をむき出しにすることにもリスクがありますから、リスクの管理も意識しています。
「言ってみたいことがある」「言ってみたいけど、こんなこと言ったら、否定的な反応があるだろうか」「言い方を考えてみよう」「とりあえず、この程度で言ってみることにする」「やっぱり、こんな反応があったか」「次の言い方は工夫してみよう」
こういう試行錯誤をしています。言いたいことは言いたくなってしまう、それを抑えることが私には大変難しい。それは病気の後遺症みたいなものかもしれません。私にとって感情は思い通りにならない厄介なものですが、殺すことはできないので、つきあい方は意識して熟達しようとしています。
インプロの経験を通じて、いま何を感じているのか、いま何をしたいと思っているのか、自分の感情を細く感じられるようになりました。それと同時に、感情に振り回されず、冷静に感情を見つめる技も身に着けることができたと思っています。
インプロを演じていて怒りを爆発させる演技をすることはあります。でも、そこで意識の100%を怒りに捕われては芝居が先に進みませんので、どこかで怒る自分を冷静に見つめる自分がいる必要があります。強い感情でもマネジメントできることを学びました。
インプロは自分の意志や感情だけを押し通しても、よい芝居を見せるという目標は達成できません。共演者の意志と自分の意志の進みたい向きを、その瞬間に判断して、ときに自分の意志を控えることが自分の望みを実現する近道になることも教えてくれました。
ときに待つことも大事で、待つ技術は日常生活でも有効ですね。それとなく自分の意志を伝えてみて、相手の反応を確認して、「時でない」と感じたら、待つ、ということができるようになりました。
クラシックバレエの経験も自分の状態をモニタリングするのに活きています。というのも、バレエのメソッドは体を無駄なく使えるようにきわめて合理的に洗練されて作られていまして。バレエの動きの美しさは、美しく動くために体を鍛えて作るものではありません。無駄なく体を動かした結果が美しいのです。
姿勢が歪んだり、動きがぎこちないときは、余計な力が入っているわけです。どうして、無駄な力がこんなところに入るのだろうと気づきます。バレエのレッスンは自分の体との対話です。無駄な力が入るところは身体が縮こまっているわけですが、そこには否定的な感情が宿っているものです。不安や困惑や怒りなど、否定的な感情は体を縮こまらせてしまうので。
たとえば、私には肩に力が入って猫背になる身体の癖がありますが、あるとき、人から見られる、人から評価される、そういう不安や怖れの感情が体を歪めていることに気づきました。だから、不安や怖れから解放されれば自然と姿勢は直っていきました。逆に強ばっている部位を伸ばして柔らかくしてあげれば否定的な感情を手放していける技にもなります。
これは瞑想に近いものです。バレエで体を動かせば汗もかいてすっきりしますが、それでストレスを解消しただけでは、また元に戻ってしまいます。ただのストレス解消で終わらせるのではなくて、自分自身の認知の状態をメンテナンスしていく技として活用しています。
8 病気に対応するために準備していることはありますか
私の病気は「ここに腫瘍があります」と映すことができたり、血液検査の数値で確かめたりすることのできるものではなかったので、病気の情報を他者と共有して対策を整えられたわけではありません。
だから、家族にも黙ったまま闘病を遂行してきたわけですが、そのとき大切にしていたのは、ロジスティックス(補給線)の確保でした。
私が快復できた最大の強みは、その当時、親が若くて、まだ働けていたからです。親が定年を迎えて、私が稼がないといけないなんて状況だったら、誇張ではなく、いま生きていないかもしれません。それはとても恵まれた幸運でしたし、反対に、それを活かさないでは活路はないと思っていました。
親が元気なうちに打てる手はすべて打たないといけないと決めていました。「善くなろう」という試行錯誤はすべて最前線の攻防でしたが、後方のロジスティックスがなくても成り立たないギリギリの戦いでした。
だから、親の定年や収入の変化はつねに意識しつつ、自分のとるべき選択を考えていました。そういう意味では、明確にお尻の期限がありました。期限を意識して、期限内にできることを比較して、秤にかけて、選んで、結果的には、インプロやバレエを経験し、就職活動を成功させ、勤めながら資格を取り、仕事での価値観を共有できる多数の友人に恵まれ、すべての戦果を期限内に整えることができました。が、それは本当に奇跡です。運がよかったに尽きます。
周囲の環境と運のおかげでここまで来られたと思っています。私は決して強者ではない。その自覚を忘れないようにしています。
いつ何があってもいいように準備だけはしておこうと常日頃から思っています。こういう病気なので、環境次第では、もう一度病気が再発することがあるかもしれない。仕事を辞めなければいけないことがあるかもしれない。
取れる時に資格は取っておきたい。これまで、社会保険労務士、行政書士から始まり、民間のコーチング資格やワークショップデザイナーのコースを修了したりもしました。これもまたロジスティックスだと考えています。
資格を取れば、それを肩書にして勉強会や交流会に出ることができます。いざという時に相談できる伝手を作っておくこともできます。転職先がキープできれば理想ですけど、そうでなくても、気になる業界がどのような業界で、どのような人材が求められるのかを事前に知っておけるのは、強力な情報です。
自分からの発信もしています。「Rs' Ink.」という個人プロジェクトを立ち上げて、イベントやワークショップを主催して、自分の実績として積み上げているのも、自分がどんな人間で、どんな価値観をもっているのかをオープンにすることに価値があると思うからです。それだけでは十分な収入にならなくても、自分のウリがはっきりしていれば、それを好意的に評価してくれる職場と出会うことも、否定的に評価する職場を避けることも、できますからね。
自分から発信することで数多くの受信者に巡り合うことができます。それがいざというときの命綱になると考えています。助けを求める選択肢はできるだけたくさん用意しておいた方が、リスクも分散できるものですから。
いま自分の手元にあるものは、使えるものはすべて有効活用してやろうと、どんな形なら使えるだろうと、いつも考えています。それが瞬間的なチャンスに食いついていく瞬発力にもなるし、想定外の環境の変化(転勤とか)が起きたときに柔軟に対応できるしなやかさにもなります。
与えられた環境のなかで自分の望みを最大限実現していく技、実現できそうなチャンスを逃さない技、周囲環境とうまく調整していく技、それは随分とうまくなったものだと実感します。
9 病気の経験を経て得た知識や技術はありますか
病気とはいえ29歳まで無職ですからね。就職もキャリアデザインも簡単ではありませんでした。色々な意味でタフになりましたし、学んだこともたくさんあります。
リスクを取れるようになりましたね。就職の面接では面接官に「今まで何してきたんですか」って言われて、「病気で大変な思いをしてきました。苦労をわかってください」なんて言ったって、誰も気に留めてはくれないですよね。「ふーん、だから? 結局、無職でしょ」って反応が当然だと思います。
スタート地点がここなのにすでに先行く同世代に追いつくためには同じことをしていては到底かないません。
まともな履歴書でないのは明らかなのに、いまさら「自分がどんな風に見られるだろう」とか「どんな評価をされるんだろう」とか、怖がっていられる余裕なんてどこにもありませんでした。恥をかいても傷ついても泣いても前に前に出るしかなかったんです。引き返すときは死ぬときでした。
だから、人がやらないことをやるし、人が言わないことを言って、そうして、自分のユニークさをつくっていくほかありませんでした。新卒採用を諦めるなんて決断も、個人プロジェクトを始めるという決断も、いつだって、自分が傷つくリスクと背中合わせでした。
人のやらないことをやれば未来の行き先なんてわかりません。不確実な状況に耐えることには強くなりました。どこに行けばいいのかもわからない、誰も答えをくれないなかで、試行錯誤して、ひとつずつ人生の解を導いていく、我慢する力は身についたと思います。
「この瞬間だけ」っていう考え方をしているのかもしれません。ある意味で生死の境を超えてくると「次」とか「また今度」って、考えられないんですね。だって「次」の機会には生きていないかもしれません。
だから、「できる、できない」ではなくて、「どうしたら、できるだろう」「いつならできるだろう」ということを考えています。そして、できる瞬間には、かならずやると腹に決めています。
心折れかけることも多かったですけど、結局、もちこたえて、前進できたので、そういうタフネスはあるのでしょうね。それに、数多くの助けに支えられてここまで来られたことも分かっているので、助けてくれそうな人の探し方も心得ています。助けてくれそうな人に「助けて」って言うだけなんですけど、「助けて」って言うこともリスクですよね。そのリスクも取れるようになりました。
それだけ「いまここ」にコミットしてした決断なら後悔もありません。後悔しない決断ができることも、この経験で得た強みです。
ただ、どんだけカッコいいこと言っても、所詮は29歳まで無職のニートですから、咎められこそすれ、とても褒められたものではない生き方です。世間的にまったく認められないことは容易に想像がつきます。
いまさら、それを「わかってくれ」とは言いません。言いませんが、当たり前の裏側に、どんな思いをしている人がいるかなんて、わからないものです。ということは、自分にとっての当たり前が当たり前でないことなんていくらでもあるんだなということも理解できるようになりました。結果、多様性というものを受け容れられるようになりました。
病気で働けない人の気もちも認められるし、健康で働いてる人の立場や言い分も理解できる。その両方の声を聴けるというのはユニークな力だと思っています。
一方が一方の立場だけを主張して相手に配慮を求めるだけでは社会は変わりません。社会に変化を導くためには両者の間で対話が必要なんです。健康な人が病気の人の境遇を理解するとともに、病気の人が健康な人の立場も理解する必要があります。
病気と健康の「間」での対話をデザインできれば社会もより望ましいものにデザインしなおすことができるかもしれません。その目的を実現する能力が私にあるとしたら、病気の経験がくれたものに違いないですね。
10 病気という経験をいまどのように意味づけていますか
病気になってよかったと思っているわけでは、正直ありません。ただ、気づいたときにはもう病気になっていたので、病気にならなかったらということを想像できないというのも事実です。
私にとって病気は、病気になっていたら、病気になっていなかったらということを云々することが不可能なこと、そもそも、避けることも否定することもできない運命、絶対の前提なんだと思っています。
この与えられた人生の条件をどう使って生き延びていくのか、そういう材料なんですよね。これしかないから、これで生きていかないといけないわけで。どうしたら、この材料でうまい料理をこしらえて、人に美味しいって食べてもらえるようにできるのか、思えば、そんなことばかり考えるようになりました。
だから、生きる前提って、すごく大事だと思っています。どういう自分でありたいのか、自分はどういう人間なのか、その前提次第で、生き方はまるで変わってくるものですから。
「苦しみ悩んでいる病人」という自分でありたいのか、「快復に向けて這いあがるチャレンジャー」という自分でありたいのか、その認識の差が、日々の果てに、大きな違いを作るものだと信じています。
「強くなければ生きていけない」と思って生きてきました。いまの私はとても強い人間、有能な人間だと思います。もちろん、そうなれたのは奇跡です。すべての人が私と同じように強く生きられることではないことも分かっています。
だから、ときに妬みやっかみを招きましたし、ときに私のエネルギーは強すぎて人を寄せ付けないこともありました。孤独や寂しさを覚えないといえば嘘になりますが、それもこの生き方を選んだための諸刃の剣だと思っています。
ただ、強くいられる人間には強くれる人間の果たすべき責務もあるだろうと思うのですね。
同世代のがんサバイバーの友人に数多く恵まれました。元気な人もいますが再発をして今まさにがんと戦っている友人もいます。彼ら彼女らに許された時間は決して長くありません。週に一度の抗がん剤を打つ日の翌日には40度の熱が出て動けなくなってしまうことも。
がんは特別な病気だと思っています。「病気をしたものだから同じだ」なんておいそれと言うことはできません。でも、病気をしながらもいまこうして生きながらえた身であれば、自分は強いと自認できる身であれば、彼ら彼女らが見たくても見られなかったものを見て、したくてもできなかったことをして、できるかぎり友の意志を身に背負って生きることは務めじゃないのかと思っています。
私の身体をみなに貸すことができるのであれば、この世で何をなして生きるのか、何を実現するのか、いまはそれを自分に問いかけています。天命って、そういうことだと思うので。
親のかけた呪いは強固でした。「自分はできない人間なんだ」という強迫観念は私をずっと自由にはさせてくれませんでした。いくら、自分にできたこと、できることを数えても、それだけでは、解放されず。
尊敬できる友人が一緒に勉強会をしようと言ってくれたり、独力でワークショップを企画運営したり、ネットで発信をしたり、試行錯誤や行動を一個ずつ積み重ねることで、やっと開放された思いがします。
もちろん、周囲の人が助けてくれたからいまの自分がいて、だから、恩返しのできる人間になりたいと思います。
自分の身に起きた不条理を嘆けば人を恨むことになります。死ぬときに誰も恨むことのない人生にしようとだけ決めました。だから、過去どうだったかということは振り返らないし、未来どうありたいかだけに意識を集中していますし、誰かを愛していたいと願っています。そういう意味では義理人情には厚い人間になれたと思っていますよ。
そういう私は悪くない。
ED 周囲からの関わりで効果的だったサポートについて教えてください
あったらいいだろうと思い描くサポートについてお話しさせていただきます。
病気をすれば、思い描いていた人生を諦めたり、手にしていた幸せを手放したりすることもあります。道が見えなくて、どこに進めばいいのか分からない日々を送ることにもなるでしょう。どこに行けばいいのか悩みます。
でも、その答えを教えてくれる人は、どこにもいません。私にはいませんでした。誰にもいないと思います。自分の人生は自分で開いていくしかないからです。
過去に模範解答は存在しないから、最短距離で進める最適解もなくて、だから、試行錯誤しながら、自分で作っていかないといけない道です。ゴールがいつ見えるかも分からない試練です。時間もかかるし、エネルギーもかかるでしょう。無駄もしながらゆっくり進んでいくほかはありません。
だから、重要なのはロジスティックスの確保です。ゴールまで辿りつく前に物資尽きて行き倒れににもなりかねない。そのリスクをどうやって軽減するか、それがサポートのエッセンスではないかと思うのです。お金もそうですが、感情やモチベーションの部分で、燃え尽きたり、折れたりさせない環境づくりは必要ではないでしょうか。
いまの社会の制度設計だと、大きな病気をすれば、その瞬間、健康な人の社会からすっぱり切り離されて、病気の人の社会へと投げこまれたまま閉じこめられてしまいます。医療や支援のサービスは病気だから提供されるので、病気でなければ提供されないからです。
病気休職をして傷病手当金を受給してしまえば働くことは現状許されません。働かないことが休職と手当金の条件だからです。でも、そのために、休職者はどんどん社会から隔絶されていきます。孤独に落ちこんで自信も自己効力感も失ってしまいます。
健康な人と同様に働けるわけではないでしょう。でも、働ける範囲で働くこと、貢献できる余地を残しておくことは大切だと考えています。「病んでもできる仕事」「ちょいワーク」みたいな選択肢があってもよいのではないでしょうか。働く場所は職場(オフィス)でなくてもいいわけで、NPOで社会貢献をしたり、暮らす地域の仕事をすることでもいいはずです。大切なのは、病気になっても貢献できるコミュニティを確保しておくことです。
理想をいえば、病気の経験で稼げる仕組みを作りたい。「稼ぎ」をあげることは、いちばんわかりやすい社会貢献です。病気の人が稼げることで得られる自己効力感や安心感は絶大なものです。
病気の経験者が病気の経験をタネに稼ぎをあげられれば、健康な人も認めないわけにはいかなくなります。病気が生活を苦しくするものではなく、生活を豊かにしてくれるものでもあると認知されれば、そこに好循環が生まれるはずです。
だから、組織開発やキャリアデザインに「病気の視点を」というアプローチを主張しているわけです。病気の人にとって働きやすい職場は誰にとっても働きやすい職場であったり、病気というまさかの事態に対応できるキャリアこそしなやかな強さのあるキャリア設計であったり、そういうアプローチで病気の経験を活かせないかと考えています。
やはり病気を医療の対象として取り扱っているだけでは健康な人へのアプローチは難しい。健康な人も対象に含めて病気をテーマにするなら学習へのアプローチを選ぶのが妥当だと思うものです。
「健康経営」が脚光を浴びている産業保健の分野にいまはアンテナを立てています。産業保健的なアプローチは職場の制度設計に傾斜したものになりがちです。しかし、就業規則をはじめとした制度設計だけでは、仏作って魂入れずに終わってしまう懸念がありますので、制度を運用するための文化づくりが大切で、そこに私の得意とする学習環境のデザインやワークショップのスタイルが参入していける余地があると思っています。