file:001 Negishi Satoshi I

「R-TALK Interview」の「file:001」は、20代を病気と共に生き、29歳のときに社会人になって、その経験から、病気の経験もキャリアとして考えていきたいと、《健康と病気の「間」で「学ぶ」をデザインする》をテーマに「Rs' Ink.」という活動をしている私、ねぎぽんです。

このインタビューは前後編の構成です。こちらは前編です。

 

OP 病気になったときのことについて教えてください

実は、自分がいったい何の病気だったか、いまもよくわかっていないのです。心身に不具合があって苦労したのはたしかなことで。就職したときには29歳だったというくらいには、苦しい思いをしてきました。

明確な病名があるわけではないし、通院さえしてきませんでした。そこが伝わりにくいところですので、その説明から始めましょう。

幼いころの私は天才肌の子どもでした。ものすごく感性が鋭くて、頭の回転も速くて、知識を吸収しようという意欲も高く。そのかわり、得意と不得意がはっきりしていて、苦手なものも明確にあった子どもでしたね。

両親は公立中学校の教師でした。教師というもののメンタリティは、幼い当時の私と、残念なことに、まったく真逆でした。

教師には子どもの評価を通知表、あの成績の「5段階」でする癖があるものです。私という子どもは5段階評価にムラがある子どもでして、得意であれば5を突き抜けて10くらい取ってしまえるのに、不得意な教科は2だったりもするわけです。

教師というものは10できることよりも、2しかできないことに目がいくもの。評定は5までしかないのだから、5が取れるなら、その教科はほどほどにして、2を4にするように求めるわけです。

結局、自分が好きなことでいくらやっても評価されず、好きなことに夢中になれば、他が疎かだとケチがつく。そんなことが続くと、いったい自分が何が好きで、何がしたくで、どうなりたいのか、そういうことが一切わからなくなってきます。

次第に周囲の大人の望む答えを呈示することが、すべてなんだろうと思うようになりました。自分のやりたいことや自分の好きなことなんて、何の価値もないと思いこんでいました。

気づいたときには、親や教師の期待や評価を先回りして満たすことばかり気にして、大人たちの顔色だけを窺って、自分の感情はすべて殺すような子どもになっていました。しかも、そういう偽装がきわめて巧みで、周囲の大人はみな騙される。

大人のロボットみたいな、生きていて生きていないような、そういう感覚でした。意志や感情なんてどこにもありませんでした。

学校に通っていた時代は、それでもよかった。でも、20歳を超えて、大学を卒業するころには、働かないといけなくて、そのときにいきなり「後の人生は自分で決めろ」と言われるわけです。けれど、そんなのできるはずがないんですよ。だって、いままで、ひとつも意志決定をする経験をしてきていないわけですから。

大人になれば答えはありません。答えをくれる親も教師もいません。だけど、自分の意志をどう決定して、どう振る舞えばいいのか、さっぱりわからない。私の意志や感情の力は完全に壊れていました。

感情が壊れてしまえば何をしたいのかさえわかりません。何がしたいのかわからない人間は自分が誰だかわかりません。自分が誰かも分からない人間には他者と健全な人間関係を結ぶことなんて夢のまた夢です。

人前に立つだけで、体が震えて、涙が出てくるようになりました。人から少しでも責められれば逆上して烈火のように攻撃したくなるし、すこしでも好意をもった相手がいればストーカーのように執着してしまうような状態で。感情のコントロールを完全に失っていました。

自分の心と体と感情が自分のものでありませんでした。自分の望まない行動や発言を自分が勝手にしてしまうような有り様です。いつか人を傷つけたり、自分を傷つけたりしてしまうのではないかと思えば怖くて、じっと部屋に閉じこもっていました。

通常の社会的な活動はほとんどできませんでした。部屋にこもって本を読んでいるばかり。仕事もしないし、学校にも行っていない。外目にはヒキコモリ同然だった時期も25歳前後に2年ほどありました。

この病気は、病名のつくものではありません。もちろん、病院で善くできるものでもありません。善くするためには自分で自分を変えていくほかはありませんでした。いろいろな試行錯誤を経て、29歳のときに、やっと「社会人」になるわけですが、それがゴールだというはずもなく、社会復帰のためのリハビリ期間に入ったような感じで、そこからも大きな苦労がありました。

なんとか、「治った」と言えるようになったのは、ここ半年のことです。

 

 

1 病気になったことで変わってしまったことについて聞かせてください

気がついたときにはおかしくなっていました。だから、健康から病気に、そして、また健康にというプロセスを辿ってきたわけではありません。

「このままでは生きてはいけない」「なにもしなければ、このまま死ぬばかりだ」「それだけはイヤだ」「なんとか、しなければ」

そう決意した夜があって。その晩のことだけは、いまでもよく覚えています。

投薬で治るものでもないし、特効薬も処方箋も何もない。何をどうすれば「善く」なれるのかなんて見当もつかない。教えてくれる人は誰もいない。それでも、あの晩、一歩を踏み出せたから、いまがあると思っています。24歳か、そのころのことでした。

喪うもの、手放すものは、たくさんありました。いままでの生き方、いままでの人格そのものが自分を苦しめていることだけはわかっていましたから、まず壊すことから始めました。

そう、いままでの自分を壊す、徹底的に壊すことだと。そのときは、親や教師や、周囲の大人たちの期待に応えるためだけに作りあげてきた根岸哲史という人格を根こそぎ壊し尽くすことだけを考えていました。

決意して初めにしたこと、それは、当時、気になっていた女性に告白して失敗することでした。人の評価を怖れて、傷ついたり失敗することが怖いなら、自分のことなんて、ひたすら傷つけて傷つけて傷つけ尽くせば、痛くもかゆくもなくなるだろうと思っていました。

就職活動もやめました。「新卒」での就職をしないということは愚かなリスクです。でも、ここで体裁のために就職を選んだら、それこそ、いままでと同じことの繰り返しだと思いました。就職しても、30歳を超えたころ、本格的に心を壊して早期退職なんてことにでもなれば、それこそ取り返しがつかない。やり切るならいまだと。

そういう決断のすべては意志や感情を発露するレッスンでした。長い間、殺したままにしていれば、感情や意志の出し方などそもそもわかりません。そして、出してみても、出し方は下手なものです。結果、人に伝わらなかったり、傷つけたりしてしまう。嫌な思いもする。でも、それもすべて改善と成長のために必要なコストだと割り切りました。何度もトライして、何度も失敗して、痛みに慣れたり、「受け身」の取り方を覚えていきます。

だから、「やりたい」と思ったことならすべてやると決めていました。頭で考えすぎだから体を使った表現をしてみるのはどうだろうと思えば、クラシックバレエ、ヨガ、モダンダンス、パントマイム、演劇、茶道まで、なんでもやってみました。

「大学も卒業したら就職をするものだ」という周囲の大人たちの常識には一切耳を貸さない。自分で試して確かめて目にしたもの以外のものは絶対に信じない。そういう覚悟はあったのでしょうね。人の評価を喪っても、自分の感情や意志を大切にすること、はじめから上手くできない(失敗する)とわかっていても、試行錯誤をすること、それにはずっとこだわっていました。

すると、次第に、何がしたいのか、朧げに見えてきます。そうなると、少しずつ自分が信頼できるようになって、感情も落ち着いてくるようになりました。階段を一歩ずつあがっていく営為でした。短くない時間がかかりました。

人と正常に接することができるようになり、小売店で接客のアルバイトができるようになって、就職活動にも自信がでてきて、正社員の採用を得ることができました。

このプロセスで喪ったもの、諦めたものは、たくさんあります。

「普通の就職」はできませんでした。キャリアにとって、それは大きな傷です。20代はキャリアを形成するうえで体力的にも精神的にも重要な期間です。そのとき知識や技能を積み上げることのいっさいができず、ただひたすら壊しつづるほかなかったわけですからね。同じ高校を出て、同じ大学を卒業した同級生たちは、東証一部に上場するような大企業に勤めています。年収だって、いまの自分と倍ほども違う。

プライベートでも、同世代が恋愛や結婚をしていくなかで、私は自分のことだけで精一杯でしたから、パートナーのことを気遣うような余裕なんてあるはずもなく、まったく進展しなかったわけです。

悔しくないといったら、それは嘘になりますよ。

 

 

2 病気になって新たに出会った人やものについて教えてください

「善くなろう」と決めたとき、我慢をする時間が始まったと思いました。ただひたすら耐える時間だと覚悟しました。

「やりたい」「自分に必要だ」と思ったことは、すべてやろうと思いました。お芝居もやりましたし、ダンスもしましたし、小説や評論を書いて投稿することもしました。「善く」なるためには自分を表現することがどうしても必要でした。壊れてしまった意志と感情を回復させるためには、表に出すレッスンを重ねるほかに道がなかったからです。

自分を表現することは、殺してきた自分を受け容れることであり、他者に見える形に晒すことでコミュニケーションをしようとすることであり、すべては修行でした。

その当時は、いままで殺してきた意志や感情が「呪い」となって、私を支配している状態でした。呪いは除霊してやる必要があります。抑えこんでさらに殺すようにしては悪化するだけですから、解放してやるほかありません。

あるとき呪いは「小説を書かねばならない」と叫びます。だから、書くわけです。働きもせず何日もかけて書くわけです。そして、書きあがるわけですが、それが、まったくつまらなくて出来が悪い。それは「私が書きたい」からではないからですね。

「私が書きたい」のではなくて、呪いが叫ぶから、その呪いの願いを満たすためにしているだけなので、小説を書くこと自体は嫌なことなんです。こんな作品を自分のものとしたくはない。ましてや、小説家になりたいわけでもないのです。

そうです。かつて「書けたらいいな」と思ったことがあって、その意志を周囲の大人の評価のために殺してきた過去があって、だから、その意志が呪いとなって逆襲をしてくる。だから、その怨霊を成仏させてやるためには、書かなければならないのです。

書かなくてはならないし、書いて小説の新人賞に応募しなければいけないし、案の定、落選して、ダメだったと認識しないといけない。そうしてはじめて、この呪いは消えていくわけです。

普通は小説家になりたいから小説を書くわけです。でも、そうではない。私としても「小説を書きたい!書きたい!!」と心が叫ぶから、書く。でも、してみたら「そんなのやりたくなかった」と心が掌を返すわけです。そして、次に「ダンスがやりたい!」と叫びだすわけです。いったい何がしたいのだとあきれ果て、自分の「したいこと」を信じられなくなります。

やってみては裏切られるの繰り返しで心底疲労します。でも、するしかない。一個ずつ潰していってやっと溜めに溜めこんだ呪いを除霊できるのです。

でも、見た目には、20代も半ばにして、実家にいて、仕事にも行かずに、ダンスやらお芝居やらしているわけでしょう。成人男性の暮らしとして社会的にまったく正当化できないわけですよ。

だから、「自分は悪いことをしているのだ」「罪を犯しているのだ」という認識はいつもありました。もちろん、自分としては社会復帰してちゃんと働いて稼げる人間になりたいわけです。善くなろうと思ってやっているわけです。実家を離れて自立も自活もできるようになりたい。

でも、そのためのプロセスは、そうではないわけです。20代半ばで無職。普通の暮らしじゃないことは理解していました。進むも地獄、戻るも地獄なら、自分の選んだことを信じるしかなかったですね。

ただ、いつまでにどれくらいの効果が上がって、どうしたら確実に善くなるかなんて、さっぱりわからないし、保証もできませんでした。だから、人に説明することもできませんでしたし、ひとりでやり遂げるしかありませんでした。理解されることも受容されることも一切を捨てました。

「いつまでこんなことを続けなければならないんだろう」「なんでこんなことに時間を使わなければならないのだろう」と思えば、ほんとうに苦しい時代でした。孤独でしたね。

 

 

3 病気の経験を共有したり話しあったりする人たちはいましたか

私の「闘病生活」には、「善くなろう」と行動していた急性期治療的な時代と、就職して社会復帰のリハビリをしていた時期と、大きく二つあると思ってます。

無職だった時代、病気のことを話しあう友達はいませんでした。当時はSNSというものもなく、患者会のようなものに出会うのがすごく難しかったものでした。

ただ、皆無というわけでもありませんでした。心の病気関係の支援団体の情報はインターネットで調べたりはしてました。でも、どちらかといえば違和感を感じることの方が多かったですね。自分の求めるものと違うなと。

当時、通院しなかったこととも通じるのですが、私は自分が病人だとは思っていなかったし、思いたくもなかったのですね。病人であるということを人生の言い訳にしたくはなかったというか。

辛かったことや苦しかったことを共有したかったわけではないのです。そうではなくて、どうしたら善くなれるか、どうやったらこの先、生き残っていけるか、そういうことを知りたかったし、話したかったのです。

私自身の経験を「病」の経験として話せるようになったのは、ここ数年のことです。就職してしばらくして、社会復帰のリハビリが進んでからです。

縁あって同世代のがんサバイバーの交流会に参加するようになりました。自分とは違う病気をしてきた人たちと接するなかで、違うこともあれば、似たこともあって、自分の経験もまたひとつの病気の経験として受容できるようになっていきました。

「あのころは苦しかった」「あのころはがんばった」と振り返ることができたとき、「あの頃は病気だったのだな」「あのころは本当の自分ではなかったのだな」と思えるようになりました。

それはきっと、苦しかった経験を終わらせられたからではないかと。やっぱり、自分の経験を話すこと、言葉にすることは、大事だなと思います。

消化できていない体験や完了していない体験を、自分のなかに留めておくのはとても苦しいことです。言葉にして人に伝えることで、初めて消化したり終わらせたりすることができものなのでしょうね。

私の感情は時に否定的で、聞く人を傷つけてしまうこともあるものでした。だから、自分の感情をオープンにしてしまえば周囲の人を傷つけてしまうかもしれないという恐れもありました。それもまた自分の過去を話すことをためらわせた理由でした。

だから、人に話ができる形にできたということは、もう人を傷つけることがない安全な経験・記憶・感情にできたということに等しくて、それは、私にとって、とても大きな救いになるものです。

いまはSNSを活用できるので、苦しい経験を終わらせられたな、節目にできたなと感じたときは、SNSに投稿して友だちの目に見える状態にしようとしています。そういう意味では、現在進行形で病気のときに、病気のことを話したという経験は、あまりないのかもしれませんね。

 

 

4 病気の経験を受容するうえで目標やモデルとなった人はいますか

私の問題は感情にあったので、頭で考えてたらダメだと、クラシックバレエやコンテンポラリーダンス、体で表現するものを、あれこれ試してみました。そのなかでも即興でするお芝居(インプロ)との出会いは私の人生を一変させました。

インプロに脚本はありません。リハーサルもない。すべて即興です。言葉や身振り手振りのやり取りを重ねて共演者とゼロから芝居という作品を生みだしていきます。言ってみれば、コミュニケーションの表現、コミュニケーションの芸術です。

脚本がないので何が起きるかわかりません。共演者が何をしてくるかもわからない。歌いだすかもしれないし、踊りだすかもしれない。どんなことが起きても、なかったことにしないで、受け容れて、関わっていきます。そのうえで、「じゃあ、私は何をしたいのか」ということを共演者に伝えていくことも大事です。

つまるところ、コミュニケーションの芸術としてのインプロは「わかりあう」ことを目的としません。そうではなくて、「わからない」ことが前提で、互いにわかりあえない同士が、それでもひとつのゴールを試行錯誤で生みだしていくプロセスなのです。

共演者がいま何をやろうとしているのかをリアルタイムで察知する力、そして、いま自分が何をすべきなのかを決断して伝える力、その両方が求められます。そして、起きてしまったことは認めて、そこから何が私にできるのかだけに集中する「いま」を生きる力も、です。

病気からの快復という、まったく先の見えないプロジェクトを進める私にとって、インプロは最高の力を与えてくれたのでした。

インプロはそれ自体素晴らしいものでしたが、インプロを教えてくれた師匠の存在は、インプロ以上に絶大なものでした。私の最大のロールモデル、それが師匠です。

師匠の出演するステージで師匠のインプロを見ました。師匠のするインプロは圧倒的な迫力で、師匠は誰よりも輝いていました。「師匠のようになりたい」と思いました。師匠のようになれたら私もきっと輝ける。こんな困難はきっと乗りこえることができる。あのころは、それで無我夢中になれたし、一生懸命になれました。やっと見つけた希望でした。

それから、「どうしたらそうなれるだろう」「自分になくて、師匠にあるものは何だろう」と師匠の振る舞い、言葉、考え方をずっと観察するようになりました。そして、できそうな振る舞いから始めてみました。口癖とか、顔真似とか、簡単なところから。

もちろん、直接かけてくれた言葉のひとつひとつは宝物です。印象深いものに「あなたは、もっとわからないことを増やしなさい」という言葉があります。

親や教師の評価ばかりを気にして正解を求めつづけてきた。そういう私は、インプロをするときも、師匠の求めるであろう「正しいインプロ」を計算してやろうとしてしまうところがあったものでした。

でも、そういう姿を師匠は許してはくれませんでした。「わからないことに自分の力で挑みなさい」「わからなくても、目の前の相手をよく見て、いまここで自分を何をすべきかに集中しなさい」、いまになって振り返ってみれば、そんなメッセージだったのかと思います。

言葉の意味を細かに説明してくれることはありませんでした。きっと意図してしてくれなかったのだろうと思います。だからこそ、どうやったら師匠の言葉を自分なりに噛み砕けるのか、自分の人生に落としこむことができるのか、そのことをずっと考えていました。

師匠のイメージを鏡のようにいつも自分の前に思いうかべていました。人生で決めなければいけないことがあれば「師匠だったらどうするだろう」と自分に問いかけました。すると、不思議なことに、だんだんと自分のすべきことが分かってくるのでした。

インプロをしてから、いま何をすべきか、自分がどこに向かいたいのか、それを感じ取る力が身についたと思います。だから、決断にも後悔をしなくなりました。

 

 

5 病気になる前に身に着けていた技術や経験で力になったものはありますか

学生時代はずっと哲学書を読んでいました。カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、ベンヤミン、レヴィナス、ラカン、デリダ、ドゥルーズ、古典から現代思想まで隔てなく。

生きづらくて仕方のない理不尽な境遇。この現実を生き延びるための答えが哲学にあるような気がして。だから、私にとっては哲学はまさに「善く生きる」ための知恵でした。

生きるために哲学は案外役に立ちました。ハイデガーからは、先の見えない未来でも意を決して飛び込む意志の強さをもらいましたし、レヴィナスからはわかりあえない他者をどう受け容れるのかということを学び、ドゥルーズからはひとつの有り方に執着するのではなくて多様な有り方に広がってもいけるという命の力の強さを教わりました。

そういうこともあって、哲学を実人生で実践することにかけては幾ばくかの自信があります。そんなふうに哲学書を読む人間はごく少数派なのですが。

実は、就職してから社会復帰を遂げていく過程でも哲学は違った形で私の人生を支えてくれました。

就職した先は偶然にも医療現場でした。せっかくなので医療の世界にも人脈を広げてみようと思ったわけですが、私は医師や看護師といった医療の国家資格の保持者ではありません。そんな私が居場所を作るにはどうしたらいいだろうと日々模索していました。

そんなとき、ある総合診療科医師の存在をTwitterで偶然目にして知りました。その総合診療科の医師は、診療室さえ飛び出して、地域のなかで医師や看護師、医療従事者と一般市民が対等な関係で対話を楽しめるカフェ活動をスタートさせた人でした。

総合診療科の医師は手術を執刀する医師ではありません。病気を臓器別の疾患として診るのではなく、患者の人生として診る医師です。だから、患者ひとりひとりと向きあいながら、それぞれ個別多様な人生と対話することを大切にします。

「これは面白い」「ぜひこの人に会いたい」と直感しました。総合診療科には科学としての医療からすこしはみだして哲学に近づいている趣がありました。「ここだったら、哲学で学んできたことが強みとして活かせるんじゃないか」と思ったものです。次の瞬間、その医師がゲストに来るトークイベントへの参加を申し込んでいました。

実際、彼は哲学に興味をもってくれました。しばらくすると、彼と一緒に哲学の勉強会を運営するようになっていました。この経験は私に大きな自信を与えてくれましたし、これをきっかけに医療の世界でも多くの友人に恵まれることになりました。彼は大の恩人であり、偉大なメンターです。

実に私はラッキーでした。彼との縁はたったひとつの「つぶやき」でした。ぼんやりしていたら、すぐに流れ去ってしまうほどの偶然でした。でも、その瞬間、直感的に「必要だ」と感じ取って、彼に会いに行こうと行動したからこそ、開けた道でもあったと思います。

「わらしべ長者」が好きなんですね。わらしべが虻になって、虻がみかんになって、遂に長者になってしまう。哲学なんて、何の役に立つものかわからないものを、売り物にして、それを評価してくれる人のいるところを見つけて、食いこんで、自分の居場所を作っていくのは、まさに「わらしべ長者」でした。簡単ではありませんでしたが、とてもやりがいに満ちていました。

かつて病気の苦しさから救われたいと読んでいた哲学ですが、いまや哲学の経験は私の活動を支える強力な武器となりました。勤め先が医療機関だったのも自分の病気という経験を武器にできる偶然でしたね。

いずれにしても、転んでもただは起きないという意地ですかね。病気を背負ったからの起死回生の突破力かもしれません。「いまここ」のチャンスに自分のもてるものすべてをコミットさせて食らいついていくといういのは、とてもインプロ的な感じがします。